8-16-2002(Fri.)

精進

 どこの宗教でも、なぜか「ベジタリアンは偉い」みたいな教えがあって、仏教では肉料理のことを「生臭料理」などとも言う。

 生臭(なまぐさ)。つまり煩悩を捨て切れず、欲望の赴くがままという意味にも使われる。殺生を厳しく戒めた仏教の教えにあって、ひたすら仏道修業に精進する人は、菜食主義に走るわけですね。あぁ、ベジタリアンは禁欲の証。元からお肉が嫌いな人は、労せずエライ人になれてラッキーだぞ。「精進」とゆーのはまた、ストイックなお稽古の代名詞にもなっていたりして、別に大関に指名された外国人力士が、あわててベジタリアン宣言するわけではないのだな。


と、そこまではいいのだが。


 問題は「精進料理」のほうなのです。ひたすら菜食主義を貫くためとはいえ、元々は肉食を好んでしていたとしか思えない、見事な料理も沢山ある。中でも大豆を使った加工品は、ネタばらしされるまで「鴨肉だと思ってた湯葉」とか、「魚肉だと思ってた豆腐」とか、その名も「雁もどき」なんて悩ましい名前の食べ物まである。そもそも「精進落とし」や「精進明け」の酒池肉林な大盤振舞は有名だけど、「精進固め」ってのは初めて聞いたぞ。なんでも精進期間に入る前、肉・魚の食べ溜めをするのだそうだ。

は?

 やっぱラマダンにも抜け道があるように、仏教にも抜け道があるのねぇ。まぁ生活に追われるパンピーは「大乗仏教」なんてモノを信仰して、「代表者が悟ってくれればそれで良し」みたいなところがあるから仕方ないとしても、その代表者のみなさまは何をしているかというと、せっせと精進料理を作ったりインゲン豆の隠元さんみたいに、いそいそとお豆の改良なんかしているのである。修業僧ってのは自給自足が原則だから、お豆の研究をするのはいいとして。


 「精進料理を作るほう」が、果たして煩悩を捨て切れているのかどうか、とても疑問を持ったのだな。

 その昔、やんごとなき人々は隠居をすれば仏門に入るものと、相場が決まっていたわよね。中には世捨て人も混ざっていたかもしれないけど、そもそも捨てる世があるほどの身分がある人には違いない。今日の食いぶちを気にしているパンピーには、どこの世を捨てようとあまり関係ないし、この際自給自足してみようなどと考え付くのは、田畑を耕したことのない人間が、粋狂の果てに思い付いた己に課した苦行と考えるほうが、世の中自然というものだ。

 で、政(まつりごと)の地を離れ、比叡山や高野山に篭ってはみたものの、あぁ、懐かしきは都のかほり。「雅な鴨肉の味だのぅ」とか「これこれ、これぞ六波羅の鮎の味」、な〜んてやってはおるまいか。

 そうか。「精進料理」というのは、仏道に精進するための料理と考えるからいかんのだ。食の道を極める修業、すなわち「料理の道を精進」しているのだな。

・・・と思った人は当時からいなかったのだろうか。


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