12-21-2001(Sat.)

ゆっくり、ゆっくり

 病気で休養した人の体験談を聞くと、みなさん一様に「世の中って自分1人がいなくなっても、相変わらず回っているんだなぁと思った」とおっしゃいます。私も似たようなことを考えました。

 今の社会って、ストレスと上手に同居することも考えなくてはいけないのかなぁと思うんですよ。人付き合いに関しては、いつの時代にも苦労はあると思います。ただ、せせこましい生活を強いられて、昔よりずっと世間もささくれだっているように思います。

 構想段階では「夢のハイテク」と思われていたものでも、いざ実用化してみたら生活を圧迫していた、なんてものも多いです。交通手段が発達して、通信がソラおそろしく速くなって、それで時間や気持ちにゆとりが生まれたかというと、実際はまるで余裕のない生活を強いられていたりします。続けているうちは特に意識してなくても、ふと離れてみると異常なペースだったことに気が付いた、なんてこともあります。休養経験のあるみなさんがおっしゃる「自分1人がいなくても〜」は、まさにそんな感覚を言ってるのだと思います。

 病気で倒れなくても世間のペースというか、溢れかえる情報に翻弄され、取り残されるのがコワイばかりに無理して世間のペースに合わせようとして、溜めなくていいストレスで自家中毒を起こしている人も沢山います。

 怒りやすい人、ささいなことで落ち込む人が増えたというのも、もはや世間のペースが、人が快適と感じる生活速度を越えてしまっているのではないかと思うのですよ。

 何に対して怒っているのかというと、本当は「誰に」とか「何に」ではなく、取り残されそうな自分がいつも不安で、自分より速く歩く人を見ては焦りや脅威を感じて、でもそれを認めると自分の存在価値が否定されるような気がして、攻撃的になったり、落ち込みやすくなったりするのではないかなぁと。

 中には努力を嫌って、手軽に結果を求めたがる人もいます。常に周りを気にして不安にさいなまれている人は、自分のペースや価値観が確立できていないのではないかな。その一方で、努力をしてもすぐには結果に現われず、努力の足りない人と同じ評価に甘んじなくてはいけない人もいるでしょう。それらを十把一絡げに甘ちゃんと切り捨てるのは、人それぞれの快適なペースというものが分かってない人なのではないかな。そんなささいな擦れ違いが、ちょっとずつちょっとずつ溜まっていって、人付き合いのストレスってどんどん膨れ上がるのだろうな。


 それでもまだ1人で考える時間や、人と話し合う心のゆとりや時間があれば、とことん話し合って理解し合うことは、不可能ではないと思うんですよ。そう思いたいという希望が含まれた、限りなく楽観的な意見ではありますけど。

 いかんせん現状では、あまりにも時間にゆとりのない生活をしているので、お互いにそこまで理解するに至らないことが多いのではないかな。努力を嫌う人が増えたのも、時間に追われる生活では「遅いこと=悪」みたいな錯覚にとらわれているのではないかなと。

お休みしていた時期に、そんなことを考えました。

 最初の半年くらいは何もしない時間が落ち着かなくて、妙な焦燥感もあったのですが、自分の生活で何が大切なのかをじっくり考えられる時間が持てたことは、良かったと思えるようになりました。そう思えるようになるまでには10ヶ月くらいかかりましたが、「クリエーターは誰もが昼まで寝て、夜中に働くわけじゃない」、たったこれだけのことをお客さんに分かってもらうのに1年近くかかりましたから、これも自分のペースなんだろうと思います。

 的外れだったり余計なお世話だったら本当にごめんなさいですが、ストレスのお話は人事とは思えないので、つい長々と書いちゃいました。今の社会でストレスが全くない人なんていないと思いますが、苦しんでいるみなさんも、お休みしているみなさんも、どうかこれからのご自分のペースを作り直す良いきっかけと思って、早く元気になってくださいね。


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とうがらし@倶楽部冗談






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