6-14-2002(fri.)

梅雨入りに寄せて

 梅雨入り宣言をしたとたんに見事にハッキリしない天候が続き、気温もグッと下がってしまいました。我が家の呑気な紫陽花は今年もまだ咲いてないだろうと思ったら、ソフトボール大の花芽がいつの間にかスクスク育って、とっくに色濃く大きな花塊になっておりました。いつもは海の日あたりにやっと色付く寝ぼけ気味な子だったのに、先月の気温がよほど高かったのか、今年はひまわりに先を越されず紫陽花らしい時期に咲いているのが、ちょっと嬉しい。

 紫陽花の花言葉は「移り気」だそうですが、なんでそんな濡れ衣を着せられてしまったんでしょうね。小雨に打たれてしっとり濡れた紫陽花は、憂鬱になりそうなお天気に彩りを添えてくれる、とっても絵になる存在だと思う。たぶんガクが色付く様子が、昔の人には人間の心変わりを連想させたのでしょうけど、植物の中には紅葉するものや、五色とうがらしみたいに実が色付いていく過程が一様でないものや、花が咲いてから枯れるまでに色味が変わるものもいっぱいある。そういうものたちは、「七色」や「五色」のように艶やかな名前をもらっているのに、紫陽花だけが「移り気」にされてしまったのは、何か理由があるのかな。



 少し前に友達との会話で、「他人がスタンダード」という言葉が出てきた。上手いことを言うもんだなぁと感心した。「移り気」には、どこか後ろめたいイメージがある。他人によってカンタンに信念を変え、何を信用していいのか分からない人を差すようにも思う。芯の通ってない方向転換とでも言うのかな。考えが変わった時点で誠意をもって方向転換することは、恥でもなんでもない。考えが変わったのに変わってないかのように人を欺き続けるほうが、ずっと罪悪だと思う。 ――汝、改むるを憚ることなかれ―― 誰が言ったお言葉かと考えていたら、ふと母親だったことを思い出し、さては我が家は峨眉山だったのかとギョッとした。ホントは誰が言ったんだろ。



 そもそも人の心が一定なんてことがあるのだろうか。人は1人では生きていないし、日々様々な発見や経験を積み重ねて、周りの意見に影響されたり考えを修正したりしている。それはもちろん「移り気」とは別ものだけど、では考えを変えるのは悪いことか?と聞かれたら、私は決して悪くないと思っている。「移り気」と「潔さ」の違いは、「我」と「信念」の違いとでも言いましょうか。

 似たような性質を現わす言葉でも、「我」と「信念」では大きく印象が違う。前者は「協調性のない困ったちゃん」のイメージが強いけど、後者は「1本通っている」と一目置かれる。これも同じものを見ても万人が同じようには見ていないように、同じ人物の評価でも「我が強い」と感じる人と、「強い信念の持ち主」と評する人に分かれたりする。ただし「移り気」に信念はないけど、「潔さ」にはあったりする。

 自分が単純な精神構造だからか、私は持論をハッキリ展開させる人には好感を持つ。その根拠が体系付けられてない虚栄だったり、甘えの構造に成り立っているものにはまず惹かれないのだが、たとえ自分と価値観が違っても、筋の通った話を展開する人にはとても惹かれる。そういう人の共通点は、まず強い信念と目的意識があることだが、ときにそれが裏目に出ると「ガンコ」という評価にもなったりする。ただ私が思うに「ガンコ」と「我がまま」の違いは、ガンコ者は考えを改めるときはひじょーに潔く、周囲への心配りを踏まえながらも、自分なりの解釈に納得してから方向転換することにある。ただの我がままには、それがない。前者と後者の違いは、「言い訳をするかしないか」とも思う。



 古いドラマのセリフに、こんなのがあった。

「何かあるとすぐに他人のせいにして、自分のせいではないと言い張る。好き勝手なことばかりして、都合が悪くなると被害者のふりをする。お前には良心というものがないのか」

 子供の頃はただストーリー展開に惹かれて、推理モノでも見るように捉えていたものが、じつはかなりの社会派ドラマだったのは新鮮だった。こんな気骨のある人がどれだけ現存しているかは心許ないけど、世の中が「紫陽花」だらけだったら、このドラマも再放送してないのかな。

 この歳になってもこんなことを考えているなんて、私はまだまだ「青とうがらし」なんでしょうね。



【本日の気骨モノ】
レースの板でもご紹介した「F1記録集」さんは、自分とは違った持論も沢山お持ちですが、読んでとても好感の持てるサイトです。有名になったゆえのサイト管理のご苦労も経験されているようですが、ぜひ今後とも頑張って頂きたい楽しみなページです。


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