6-8-2001(Fri.)

玉砕のススメ

い〜から何も考えずに、玉砕してこ〜いっ。

こ〜ゆ〜声援を贈ったヤツって、今までいなかったでしょうね。いや、毎度口が悪くて申し訳ない。



 何をやっても「そこそこ」っていうのは、始末が悪い。上には上がいるのはもちろんだけど、下にもいたりするから、どうとでも自分を誤魔化すことはできるんだよね。そこからどうモチベーションを保っていくかは、仕事でも遊びでも、いつかは必ず突き当たる壁だったりする。

 フラビオ師匠と、こんな話をしたことがある。「お前さぁ、自分はスゴイかもって思いそうになったら、どうしてる?」「まず思わないね」「なんでぇ?!」「いつも自分が一番下のところにいるから」「ふ〜ん、周りに恵まれてるんだねぇ」「あぁ、それはもぅとっても」「でもさぁ、まかり間違ってチヤホヤされちゃったら、いい気になったりして後悔しない?」「う〜ん・・・。たぶん居心地悪くて、いい気になる前に逃げ出すだろね」

 これって「中堅」と言われるようになると、いつかは考えることなんだよね。「中堅」て世の中に一番多い層だし、一番幅のある階層でもあるから、自分をどこに位置づけるかで悩む人は多いと思う。全く悩まずに「私ったらスゴイ」と思えればそれはそれで大したモンだけど、フツーの人ならまず「挫折感」と「これまでの積み重ねに対するこだわり」の板挟みになる時期って、遅かれ早かれ必ずやって来る。そういう挫折感を何度かちゃんと乗り越えて、いわゆる「まともな人」になっていくわけだけど、大人になってからの挫折感はかなりキツイものがある。でもその先も成長するかしないかは、それをどう捉えるかだと思うのですよ。

 フラビオ師匠はわりとお山の大将的な性格なのだが、私の「いつも自分が一番下くらいのところにいたい」という考えが、最初は理解できなかったらしい。「なんでぇ、自分が一番上になりたいとは思わないのぉ?」と何度も言われたものだが、いじけているワケでも、やって来たことを卑下しているわけでもないんですよ。人を羨むくらいならそうなるべく努力するし、チャンスがあったら行けるとこまで行きたいから、自分ごときがすぐにトップになれる程度の環境では困るというか。本気で自分は大したモンではないと思っているのも事実だけど、自分のやってきたことに自信を持っている人ほど、「いじけてるのかな?」と誤解するのだろうね。それでも師匠と気が合うのは、「この程度でいい気になったらマズイ」という共通の意識があるからなんだろな。



 成功したことと、失敗したこと。どちらのイメージを大事にしなくてはいけないか?と聞いたら、大抵の人は「成功したイメージ」と答えると思う。もしくは、天の邪鬼な人なら「そうかな、自分だったら失敗したときを考える」と言うかもしれない。ホントはどっちも考えられなくてはいけないし、考える順番もあるんだよね。悲観的な考え方と楽観的な考え方の違いって、ここで決まるような気もする。よく思うのは、プレッシャーに弱いと言われる人の考え方。成功と失敗とどちらも考えるのだろうけど、成功するイメージを考えなくてはいけないときに、無闇に失敗を恐れて悪いことを考えてしまう。逆に、失敗の原因をきちんと分析しなくてはいけないときに、成功した自分や上手く行った話しかしない。「運も実力のうち」と言うけど、本番に強いとか度胸が据わってると言われる人は、きっと逆なんだと思う。よく一代で成功した人の話を聞くと、みんな口を揃えて「成功した話は考えない」と言うよね。そこで立ち止まりたくないから、失敗した原因やまだ成功していない問題のほうばかり、常に考えている。

 「カッチョイイ自分」しか認めたくないことが、悪いとは言わない。どうしたら常に「カッチョイイ自分」でいられるかをきちんと分析して、努力を続けている人はやっぱり素晴らしいと思う。人に見られる商売の人なんかは、そうだよね。

 でも、一見失敗の原因をきちんと分析しているように見えても、人から言われたことの受け売りだったり、自分の考えとして自分の言葉で理解していなければ、やっぱり「上辺だけのカッチョイイ自分」を演出するための方法論でしかないんだよね。つまり、「あの人はちゃんと自分のカッチョ悪いところも認められて、次に失敗しないように分析できる人なんだな」と思われたいというか。どこで折り合いをつけるかはその人次第だから一々人に指図する話ではないし、「絶対こうでなくてはいけない」なんて決まりもないと思う。人が折り合いをつけたものには暖かい目で見守りたいし、それもストレスの多い社会で暮らしていくための処世術だと思うから、上手にストレスと同居していくためには必要なことかもしれない。

 ただ人から一目置かれたかったら、どういう人が世間の人望を集めているかは、研究するに越したことはない。ある人をコピーしたところでその人以上にはなれないし、その先はなんでも自分で考えて行かなければならないことだけど、それが楽しいか苦痛かでもまた、世間の見方や自分の考え方が変わるよね。どっちが良いか悪いかで判断することではないし、キツイ言い方かもしれないけど、とどの詰まりは「1番は2人は要らない」ってことではないかな。どこで「1番」と「以下同文」の差がつくかと言ったら、やっぱり日々の努力でしかないような気がする。多分に「そう思いたい」というか、「そう思わないとやっていけない」ということも含めてね。努力は決して無駄にはならないし、すぐに結果に結びつかなくても、努力している人は美しいですよ。

 経験を重ねてしまうと、コケそうな時の回避術も身に付けるけど、同時に言い訳上手にもなるよね。それも、気持ちよ〜く人も自分もコロッと丸め込める言い訳が上達してしまうので、1回初心に戻ってなりふり構わず全力投球してみて、言い訳無用の環境で玉砕したら、少し見えるものが変わるような気もします。泥臭い努力をカッチョ悪がって嫌う人も多いけど、「そこまでした〜したくない」ってのは、一度はそこまでやった辛さを知ってる人だけが、口にしても良い言葉だと思う。苦労を経験してしまうと、よけい「また、あれを繰り返すのか・・・」という気持ちになるのも、よ〜く分かります。でも「なんちゃって人生」を送っているうちは、返ってくるものも「なんちゃって」でしかないんじゃないかな。・・・な〜んて、重々ご存知のことをクドクド言って、申し訳ない。ま、「やれば出来る」は「出来てないことの言い訳」と叩き込まれたヤツの言い草ですので、お話半分にお読み下さいまし。

 なんとなく「つまんないな」と思ったら、つまんなくトップを獲ってその上に行くなり、つまんなくレコードでも出して下さい。「自主製作のソノシート」というボケも聞こえてきそうだけど、それでもいいですよ。ただし、10年くらい破れないヤツね。それでもつまんなかったら・・・。そんときは二束三文で車を買い取ります。で、元のオーナーより速く走らせる方法を考えて、目の前でとっても楽しそうに乗ってあげますよ☆\バキッ

 あぁ、オニだ、魔物だ。ほほほ。こういう言い方しかできなくて、つくづくカワイ気のないヤツですねぇ。元々ウキウキとやってくるフラビオ師匠のご自慢話を、かたっぱじからボキボキと叩き折る、とんでもないお弟子でもあるので、カンフルにはなるかもしれないけどブドウ糖にはなれないのかな。もっともお天狗になりそうになって、戒めのためにやってくる師匠も師匠だが。わはは。うちは宗教法人ぢゃないってばよ。

 とりあえず先を考えるのは、やり尽くしてからでも遅くはないと思いますよ、うん。何もしないで立ち止まってるよりは、進歩してるハズだし。ねっ?


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とうがらし@倶楽部冗談






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