11-26-2001(Tue.)

英霊

 この言葉を長いこと誤解していた。子供の頃住んでいた所は、近くに英国墓地があったせいかもしれない。近所に英国墓地があったなんていうと、お洒落で正しい横浜を想像してしまう人がいるかもしれないけど、そんなことは断じてない。ご近所の友達は、夏休みに遠くに住んでいる幼い従兄弟が遊びに来たとき、「ここが横浜なの?」と無邪気に聞かれて困ったそうだ。まぁそんな土地柄なので、たとえば目隠しをされて時間の感覚も分からない状態で運ばれてきた人が、突然ココに降ろされたら間違っても「あぁ、横浜へ来たのだな」とは思いも付かないところである。

 そんな緑に囲まれた呑気な丘の狭間も、ほどなく近くで自動車専用道の建設が始まって、なんの変哲もないススキの野原や、子供探検隊がウキウキとお出掛けする「山」も一気に切り崩されてしまった。今にして思えば自然が作り上げた造形をほんの一瞬で崩してしまうのだから、なんと勿体ないという気にもなるが、それはそれでこれまで緑のベールに覆われていた土地に、突如宝の山へと繋がる「道」がそこかしこに出来てしまったのだから、また新たな心躍る探検へのきっかけにもなった。

 子供の頃というのは、成長するに従ってどんどん生活圏が広がるのを毎日ワクワク過ごしていたように思う。徒歩でしか行動できなかったのが、やがて自転車を買ってもらい、親と一緒でなければお出掛け出来なかったのが、友達や姉とだけでお出掛け出来るようになった頃、ふと「あの山の向こうは何だろう?」と考えるようになった。近所の友達や姉もまた同じことを考えていたようで、ある日「山の向こう」を探検しに行こうということになった。「山」と言っても、登山家が征服欲をかき立てられるような立派な山ではなく、横浜にはありがちなただの雑木林が生い茂るちょっとした丘ではあったが、いつも四方を丘に囲まれて暮らしていた子供にとっては、こちらの丘とは窪地を隔てた「山」のさらに向こう側には、遥かなる地平線を見に行くような期待が広がったものだ。

 いよいよ探検の決行日となり、それでも一応ススキの葉先や篠笹の地下茎なんぞでケガをしないよう、足元を固めた装備で午前中からいそいそとお出掛けである。その頃の家は西側が丘の斜面になっていて、我々子供探検隊が目指している隣の丘はリビングの窓からよく見えたから、じつわこの「秘密の探検」も我が家から丸見えだったのだが、そんなこととはつゆ知らず、お出掛けしたほうはいたって大真面目なのである。なにしろ初めて「山の向こう」を見に行くのだから、気分はまるで「国境越え」である。子供放し飼いは「なんかドレミの歌みたいだなぁ」などと思いながら、もちろんサウンド・オブ・ミュージックの時代背景や政治的苦悩なんぞは理解してないので、足取りも軽くウキウキと「山」を闊歩していたのでした。

 たとえば大人になってからスタンド・バイ・ミーを見たときなんぞは、「早く目的地へ行かないと、日が暮れちゃうぞぉ」なんて感じるものだが、我々子供探検隊もまんまとそこかしこへ寄り道をしている。やれ面白い植物を見つけただの、削りかけの丘の斜面で清水の湧き出るルートを辿っていったら、戦時中の防空壕跡らしき洞窟に辿り着いただのと、一々本題からそれて違うものに狂喜乱舞しているので、見て見ぬ振りをして家からこっそり観察していた親たちも、さぞやじれったかったに違いない。直線距離にしたら家からわずか数百メートル圏内の「探検」なので、サッサと目的地へ向かってしまえば、お昼前にはラク勝で「山の向こう」へ辿り着いていたハズである。でも大好きなお菓子は最後の最後まで手を付けないように、サッサと目的を達成してしまうのがなんだか勿体ないような気分でもあったんだな。

 同行の友達も私の姉も口にこそ出さなかったけど、たぶん同じ思いだったのだと思う。女の子だけの子供探検隊だったわりには、ひたすら几帳面に目的をとげるという性格の子はいなかったのかもしれない。誰1人として「早く山の向こうを見に行こうよ」とは言わず、日暮れ近くまで「隣の山のこちら側の斜面」で次々と色んなものを発見し、好き勝手な分析をしては満足していたのだ。そしてそろそろ日が傾いてきた頃、誰が言い出すともなく本来の目的地へ向かって、子供探検隊は決意も新たに出発した。それはなぜかお昼前にウキウキと感じた「ドレミの歌」ではなく、クライマックスへ向かっておごそかに歩みを進めるような気分であったが、あれほどはしゃぎ回っていた子供探検隊も皆口数も少なく、薄暗くなりかけた薮の中を淡々と踏み歩いた。


 いよいよ「山」の頂上に差しかかり、雑木林と下草に阻まれた視界がパカッと開けた瞬間は、今でも鮮明に覚えている。私は3番目くらいに尾根に辿り着いたのだが、先に登り着いた姉や友達がほっぺたを夕陽で真っ赤に染めながら、無言で立ちすくんでいた理由がすぐに分かった。

 そこは本当に外国だったのだ。

 大人の世界の言葉で言うと、いわゆる「治外法権」というやつである。日本であって、日本ではなく。統治権も居住権も一時貸し出しという形で外国に委ねた土地であるが、子供放し飼いはそんな小難しい事情ではなく、ただただ見た目の異質さに「外国」を感じた。ちょうど我々が夕陽に向かって行進していたのを出迎えるかのように、そこには白く巨大な十字架と向き合って、無数の墓石が整然と連なっていたのだ。たぶんそれが初めて生の外国文化というものを意識したときだと思う。それまでも父の実家の近所にはベースがあったり、盆踊りに飛び入りの外人が入り交じるのを度々見てはいたのだが、大人がいないときに初めて見た「外国」は、すぐには言葉にならなかった。子供探検隊のメンバーも誰もすぐには口を開かなかったが、子供心にここで遊んではいけないことを暗黙のうちに察して、来たときの数倍の能率の良さで「下山」したのを覚えている。


 後年、これが山手の旧外人居留地にある「外人墓地」とは全く意味が違う、「英霊墓地」であることを知った。外人墓地との違いはその死因にほかならないのだが、英霊墓地のほうは広大な土地を占拠しているわりにはココには遺体はなく、収容できたものは後日本国へ移送したそうだ。わずかな遺品が入っているものもあるそうだが、大部分は墓石のみで中身はカラとのことである。探検から数年後、エリザベス女王が来日されたとき山手の旧英国一番館や外人墓地よりも、街中からは外れたこちらの墓地を訪問したことを不思議に思ったものだが、祖国のために殉死した人々は、外人租界で天寿をまっとうされた人々とは全く扱いが違うのも、今となっては頷ける。


 この放し飼い版スタンド・バイ・ミーは、ここで終れば子供の頃の甘酸っぱい冒険で終っていたかもしれない。山の向こうの世界をワクワクと思い描き、予想外の世界ではあったが望みどおり目の前に「外国」が広がり、「宝の山の冒険第1巻」はめでたく終了である。ところが我が家は建設中の自動車専用道が完成する前に引っ越してしまったので、その後どうしてもあの山がどうなったか見てみたくて、へこを買ってから何度か1人でフラリと足を運んだことがある。2度目か3度目にこのエリアを訪れたとき、ふと思い立って例の墓地へも行ってみた。「英霊墓地」という意味が、実感としてしかと理解できたのはこの時だと思う。

 それまで漠然と「イギリス軍の墓地」=「英霊墓地」と認識していたのが、ココは「戦死者のための墓地」なのだと改めて確認したときは、初めて山を越えてこの墓地を見たときとはまた違った、なんとも言えない気分になった。私は戦争を知らない世代なので、親戚が集まるとことごとく話に花が咲く「戦争」なるものに、特別な感慨は持ってない。人の話を見聞きしただけでは、その悲惨さや恐ろしさがどうにも実感として湧かなくて、申し訳ないのだけれど、どこか遠い国の話を聞くような気分で聞き流していたところがある。ところがヒマに任せて「かつての外国」を探索していて、ハッとさせられたことがあった。

 この英霊墓地はまっとうにバス通りに面した正面ゲートから入ると、車がすれ違えるくらいの太いメインストリートがゆるく左へ下って、緑鮮やかな芝生が美しい最も広い墓所に辿り着く。ここが子供探検隊が辿り着いた「外国」だったのだが、当時は無礼にも山越えをして裏から入ってしまったので、この通路に脇道があることはそれまで知らなかった。正面ゲートから見て右手奥、ちょうどメインストリートが左へ折れ曲がるあたりに、太さにして半分以下の徒歩でないと入れない斜面へ通じる小道がある。何の気なしに登りはじめると、奥にも何かありそうな気配がする。丘がちな横浜のことなので、敷地内にも起伏があって墓所が分散していることには何の疑問も持たなかったが、近付いてみてこれが当時のイギリス人の考え方なのかと驚いた。山の斜面に、子供時代には気付かなかった別の世界があるのだ。

 そこは植民地から駆り出され、異国の地で戦死した人々の墓地だったのである。つまり子供探検隊が見た「外国」は英軍専用の一等地で、規模にして1/10程度の薄暗く狭い場所に追いやられた「英霊」たちとは、死後も歴然と差を付けているのだ。「オセアニア地区」と書かれたプレートが大英帝国に、あるいはインドに今なお根強く残る人種格差と、死後や来世の果てまで変わることのない身分制度を現しているような気がした。


 見るともなく足元の墓石に目を落とすと、氏名・出身・没年月日・享年・階級が刻まれている。見晴らしの良い英軍専用地とは対照的に、草深い土手に囲まれた狭い植民地用の墓地には、そこに似つかわしくない将軍、大佐、准将、司令官と、目を疑うような高級将校の階級がずらりと並んでいた。将軍や司令官にしては年齢が若すぎる人もかなり混ざっているが、没年月日から察するに、激戦だった太平洋上の最前線に送り込まれたであろうことは、想像に難くない。死後に特進した人もかなりいるだろう。でも先の戦争でイギリス軍の将軍が戦死したなんて話はついぞ聞いたことがないし、これがどういうことかは何をか言わんやである。しかも植民地用の墓地とて、1箇所ではない。

 最初に愕然とした場所は「オセアニア地区」という区分の、オーストラリア・ニュージーランド系の墓地である。イギリス系の移住者を先祖に持つ、いわば大英帝国の直轄地出身の人々が眠る場所ということになる。その先のさらに奥まった場所に「インド・アジア太平洋方面地区」の墓地があるのだが、奥へ登るに従って正面に据えてある大きな白い十字架が小振りなものになり、墓所の規模も先すぼまりになっていく。この「インド・アジア地区」が枝道のどん詰まりで、敷地内全体で一番高いと思われるところには、てっぺんに御影石の地球をあしらったモニュメントが据えてある。これが大英帝国の世界観なのだろうと思ったら、地球の表面に描かれているものもカンタンに想像できる。インド人の戦没者はオセアニア地区の墓地より、さらに高級将校だらけだった。

 太平洋戦争当時のイギリス連邦は世界中に植民地を持っていたから、単に「英軍」とか「イギリス人」というより、正しくはロイヤル・ネイビーやロイヤル・エアフォースに属していた、「本国人」という呼び方になるのだろうか。植民地方面の墓地を後にして複雑な思いでメインストリートへと下り、子供放し飼いが初めて見た「外国」へ戻ってみた。そうすることがすでに習慣になったかのように足元の墓石に目をやると、年齢こそ植民地の戦死者より格段に若かったが、そこにはまた当たり前のように二等兵、上等兵たちの名前があった。

 子供の頃、真っ白でものすごく大きな十字架と広大な芝生の広場と思っていたものは、自分の成長と流れた年月の分だけしっかり小さく古ぼけたものになっていたが、もうその先は見なくても分かったような気がした。ここには高級将校の墓はないだろう。


 植民地方面の人々で、将校以外の戦死者がいなかったわけではない。むしろ比率的には逆だと思う。ここに埋葬された高級将校たちの数百倍、数千倍の戦死者がいるはずだ。インド・イギリスの身分制度に興味を持ったとき、イギリスの将校に庶民はいないことを知った。インドもおそらく似たり寄ったりだろう。軍隊では上官の命令には「イエス・サー」と敬称を付ける習慣があるが、あれは形だけの敬称ではなく、有事の時でなくても将校たちは「サー」なのである。良家の子弟は入隊しても一兵卒になることはなく、最低でも下士官からスタートする。巷での身分をそのままスライドさせて、軍隊にあってもいきなり支配者階級に組み込まれるそうだ。

 やんごとなき家系の子弟は、生まれ落ちたときから支配階級の奥義を叩き込まれるので、小僧のような年齢のボクがいきなりおぢさん連中の上官になっても、じつに堂々としたものである。もしもそんな支配者階級の人々まで戦死するような事態だったら、国民総決起の総力戦と化していただろうから、イギリス軍の戦死者に「サー」がいないのも、状況を考えれば当たり前なのかもしれない。もっとも支配者の都合で戦地へ駆り出され、散っていった無名戦士たちの御霊は「英霊」ではないのかと聞いたら、「英霊にも身分があるのだ」という答えが返ってきそうな気はするが。ただ、いつか旅のコーナーに書こうと思っている、インドで遭った「諦めきった人々」の存在を知ってしまうと、我々が感じるよりも身分についてはずっと淡泊に捉えているようにも思うんだけどね。



 「英霊」とは偉人の死後の敬称だそうで、近年は戦死者の総称として使われることが多い。「英」はもちろん英雄の英で、生前の偉業により死後は神と同じテーブルにつくものと考えられる。戦死者が神と同じ「柱」で数えられるのも、こんな発想から来ているのだろうね。

 かくして子供放し飼いが見た「外国」は、別の意味で国境を感じる場所になってしまったのだが、「英霊」という単語は以前よりずっと重みのある言葉になった。


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